こんにちは!
全国各地のご朱印、お城印集めが趣味の神宮寺城一郎です(^^)/✧
今回、テーマとなる人物はあの「佐賀の七賢人」の一人!鍋島直正公です!
鍋島直正公はどの様な人物だったのか?どんなことを行った人なのか???などを前半にお話しし、後半では、鍋島直正公と関係が深い「佐賀城」へ実際に行ってきた様子を詳しくご紹介しています^^
こちらの記事をご覧いただき「佐賀の七賢人」の鍋島直正公の魅力をご理解いただければ嬉しいです〜!
目次
・最後に佐賀城に訪れる際にぜひお持ちいただきたい御城印帳を紹介
鍋島直正公はどんな人、どんなことをした人
鍋島直正は文化11年(1815年)に生まれた江戸時代末期の大名で、「佐賀の七賢人」に数えられる佐賀が誇る偉人の一人です。
17歳で佐賀10代藩主となり、窮乏した財政を再建するため、藩政改革を行い経費削減のため、藩の役人1/3にあたる420人を解雇したと言われています。
29歳の時、長崎にオランダ船が入港するとその船に乗り込み熱心にその技術を学んだとのこと!
また、当時、外国船に実際に乗り込んだ大名は鍋島直正一人と言われています。
鍋島直正は藩政改革の中で医学校・海軍学校の創設や、藩校「弘道館」の拡張など、優秀な人材を育成・登用するための教育改革に力を入れました。
既存の役人を削減しつつ藩政を改革し、出自を問わず有能な家臣を政治の中枢へと積極的に登用していきました。
また、当時、不治の病とされていた天然痘を根絶するため、鍋島直正は佐賀藩内で大流行していた天然痘のワクチンをオランダからとりよせます。
天然痘予防のため当時あまり行われていなかった種痘を嫡子である淳一郎(直大)に接種し、藩内に広めていきました。
以後ワクチン接種が大阪や江戸にも伝わり全国的に普及、天然痘の根絶を導いたそうです。
さらに、鍋島直正は長崎警備を重視し、軍事力の強化にも力を注ぎました。
幕府が財政難で支援を得られなかったことから、独自に西洋技術の導入して近代化を進めました。
鍋島直正自らがオランダ船に乗り込み船内を視察した際の情報から、日本で初めての反射炉を造り、大砲を鋳造したほか、洋式の軍隊を組織し蒸気船までも建造しています!
その結果として当時では最新の西洋式大砲や鉄砲を自藩で製造することに成功し、後の戊辰戦争ではアームストロング砲を用いて新政府軍を勝利に導きました。
幕末、肥後からたくさんの志士が現れていますが、それらの人は弘道館で学んでいます。かれらの勉強方法は主にディベート。
大隈重信、江藤新平、大木喬任、佐野常民、島義勇、副島種臣らもここで討論を交わしています。
この六人に鍋島直正公を加えた七人が「佐賀の七賢人」と語り継がれています。
鍋島直正公と佐賀城の関係
天保6年(1835年)、佐賀城を大火災が襲います。藩の中枢であった二の丸は全焼、佐賀藩は危機に陥りました。
そこで鍋島直正は本丸再建を表明し、建設に着手しました。荒廃していた佐賀城本丸に御殿を移転・新築させることで佐賀城を再建したのです。
その後、1838年に鍋島直正は佐賀城の本丸に入ります。
実際に鍋島直正公と縁のある佐賀城へ訪れた際の様子
歩いて「佐賀城跡」に向います。
訪れたのが夕方だったので、いくぶん暑さは和らいだものの、やや蒸し暑かったです。
佐賀城跡北堀を渡る「くすの栄橋(さかえばし)」を渡りながら佐賀城郭のお堀は幅が広いと感じました。
くすの栄橋の長さは約 40 メートル!
くすの栄橋を渡り、本丸通りを300m程進と佐賀城の石垣が見えてきました。
佐賀城本丸入口の交差点を左折し、城内通りを100m程進と佐賀城入口の前に佐賀鍋島藩10代藩主鍋島直正公の大きな像が見えてきます。
【佐賀城の鯱の門】
佐賀城の鯱の門は、天保9(1838)年当時の門で、屋根の両端に青銅製の鯱が付けられて、佐賀の乱(佐賀戦争)の銃弾跡も残っています!
構造としては、二重二階の櫓門に一重二階の続櫓の組み合わせ、屋根は本瓦葺、入母屋造りとなっていています。
また、国の重要文化財に指定されています。
鯱の門をくぐると佐賀城の創建時の様子が描かれている絵図がありました。この絵図で気になる点が!
佐賀城のことが「佐嘉城」と記されています!
調べてみると、「佐嘉」が「佐賀」に統一されたのは、明治2年(1869)のことで、それ以前は「佐嘉」の文字が多く用いられていたようです^^
鯱の門を潜って真正面には24ポンドカノン砲の展示があります。
【鍋島直正が製作したカノン砲】
鍋島直正公は幕末、反射炉を築き、日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功したとあります。
反射炉は鉄を作るために使うもので、あの薩摩藩主、島津斉彬公より先に作っているのは驚きです!
佐賀城跡は、今は佐賀城本丸歴史館となっています。
【佐賀城本丸歴史館の入り口】
拝観料は「無料」となっています^^
また、館内は靴を脱いで入館するので脱ぎやすい靴で行くのがお勧めです。ソックスもお忘れなく!
【佐賀城本丸歴史館の御式台】
佐賀城本丸歴史館に入ると中はすごく涼しく快適!外が蒸し暑かったので生き返ります^〜^
写真撮影は問題ないか尋ねると、展示物の接写はNGとのことです(^_^;
館内の案内には、
《佐賀城本丸歴史館は、幕末・維新期に活躍し名君とうたわれた佐賀瀋10代藩主・鍋島直正が天保9年(1838)に再建した佐賀城本丸御殿の主要部を復元し、平成16年(2004)に開館しました。
日本で初めて近世城郭の本丸御殿を復元したもので、2500mの規模を誇る国内最大級の木造復元建物です。》
と書かれています。
先に進むとすぐに長い廊下「北廊下」があります。
【佐賀城本丸歴史館の北廊下】
北廊下の長さに圧倒されます!!!
廊下の左側には「外御書院」があります。
【佐賀城本丸歴史館の外御書院】
外御書院と呼ばれる大広間は、ひと部屋が36畳、それが4部屋あり、合計144畳ととても広く圧倒されます!
一之間は公式行事の際に藩主が座る部屋で、家臣は主に二之間から四之間にかけて控えていたそうです。
また、外御書院の左右にある廊下だけで、4畳x22、176畳。外御書院を足すと合計320畳にもなります!
天保9(1838)年本丸完成披露のときには、この大きな外御書院に約1000人の家臣が集まったとのこと!
屯(たまり)の間を抜け、御小書院の横を通り、御座間(ござのま)に入ったところで驚きました!!!
人が座っている!!!
と思ったら、鍋島直正公のパネルでした(^_^;
直正公の居室が記念撮影の場所になっています^^ぜひ記念撮影を行なってください。
幕末、肥後からたくさんの志士が現れていますが、それらの人は「弘道館」で学んでいます。
弘道館とは佐賀藩が設立した藩校でかれらの勉強方法は主にディベート(公的な主題について異なる立場に分かれ議論することをいう。)だったそうです。
「大隈重信」「江藤新平」「大木喬任」「佐野常民」「島義勇」「副島種臣」らもここで討論を交わしていて、この六人に「鍋島直正公」を加えた七人が「佐賀の七賢人」と語り継がれています。
では、最後にお城印をいただきます^^
お城印は受付でいただくことができます。
価格は300円!
いただいたお城印で撮影。
佐賀城のお城印
お城印の真ん中には佐賀城と書かれ、鍋島家の家紋「杏葉の紋」が大きくデザインされたシンプルなお城印です。
今回、佐賀城へ足を運んだことで、佐賀の歴史における鍋島直正公の存在の大きさを知ることができました^^
幕末、改革を主導したのは薩長土肥といわれ、鍋島直正公の先進的な考えは弘道館から多くの人物を輩出し、明治維新政府の中核的な役割を果たしています!
また、西洋の新しい技術を取り入れようとしたのは、薩摩の島津斉彬公と同じで、斉彬公は神格化され、鹿児島に斉彬公を祀る照国神社ができています。
さらに、驚いたのは、鍋島直正公と島津斉彬公はいとこだということ!
佐賀城へに来なければ知らなかったことです^^
皆さんもぜひ佐賀城へ足を運び、鍋島直正公の偉大さに触れてみてはいかがでしょうか?
佐賀城のアクセスと基本情報
【佐賀城の所在地】
〒840-0041
佐賀市城内2-18-1
【佐賀城の開館時間・休館日】
開館時間:午前9時30分~18時
休館日:12月29日~1月1日 ※その他臨時休館日あり
【佐賀城の入館料】
無料
【佐賀城の駐車場】
無料(119台)
最後に佐賀城に訪れる際にぜひお持ちいただきたい御城印帳を紹介
今回ご紹介する御城印帳は新作です!
今度の御城印帳の特徴は本文への差し込み式! さらに、黒色の紙が御城印をいっそう引き立てます!
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